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【読書ノートからの断片1】顔のない裸体たち:平野啓一郎著

愛を拒絶された(もっと直接的に言うのならば“振られた”)男が取る行動に、ふたつ、ある。

ひとつは、顔を赤らめ、その場からすぐに立ち去る、というもの。
もうひとつは、全身を怒りで赤く染め、『拒絶』という女側の理不尽で身勝手な行為に対して復讐の斧を振り下ろす、というもの。斧は、観念的なものに止まらない。

前者は持てる(モテる)男、後者は持たざる(モテない)男のそれである。

持たざる男は、女や社会を惹きつける何物をも持たないというただそのことだけで、長じるにつれ、自らを人生の敗者として感じるようになる。
そのなかで、それを『そのようなもの』として、己の運命を甘受し、力への意志を持つことができる者は、『持たざる者』から『持てる者』へ、その努力によって変容する可能性を持つ。
しかし、その不遇の沼のなかで、怨恨と傲慢を培養する者が辿る運命は悲惨だ。

『顔のない裸体たち』における、二人の主人公のうち、片原盈の運命は四十年かけて培養された怨恨と傲慢によってどす黒い呪詛に塗り潰されている。
高卒の地方公務員・片原盈(ミッチー)は、出会い系サイトにおいて、生徒指導の情報収集のためにそれに登録し、ふとしたことから、それが個人的な使用へと変化した中学社会科教師・吉田希美子(ミッキー)と出会う。
片原も希美子も、現実の世界において、人目を惹くような要素は何ひとつ持たない人間であるが、片原が世界(社会)を恨む傲慢さを持つのに対し、希美子は『こんなもの』と半ば諦めたような従順さを持つ。
出会ってしまったふたりは、たとえば白昼の野外での身体の露出行為をヴィデオに収めるというような一般的な性の営みを離れた行為によって、『ミッキー』と『ミッチー』として、社会的な仮面の下の抑圧された欲望を解放する。
片原が露出嗜好のサイトに投稿した自分の裸体を目にし、『そこ』において、その裸体が多くの男たちの性的な関心を喚起することを知った希美子のアイデンティティに変化が起きる。
しかし、言語によって思考できる知性を持った希美子は考える。
『これは、ほんとうに、わたし、なのだろうか』
希美子の内面の葛藤が進むあいだに、片原の内面も変化する。
単なる欲望の解放のために希美子の身体を『モノ』として必要としていたはずが、片原にとっては、『こころ』を温めるものとして必要なものに変わる。むしろ、身体でなくその『こころ』こそを欲するようになる。

『なァ、……オレたち、結婚せえへんか?』
『え?』

『関係』の終わる可能性を感じた片原が、ふと口にした(しかし意識の深層ではいつのまにか大きく育まれていた)願望に対する、希美子の瞬時の拒絶。
拒絶とは、単に、『え?』という彼女の表情でしかなかった。
しかし、その表情ほど“『ミッキーとミッチー』が『片原盈と吉田希美子』として社会的に結びつくことなど、希美子にとって夢想だにしないことだった”ということを如実に物語るものはなかった。
結局、希美子は、健康的なオモテの世界(それが見せかけにしか過ぎぬとしても)に属する人間であって、片原がどんなにそこへの所属を望んでも叶えられないのだ。
『希望』は『絶望』に変わり、『絶望』は『殺意』へといともたやすく変化する。
持たざる男にとって、『殺意』には正当な理由がある。
のちに拒絶されるべきものでしかない『希望』を抱かせたということ、それを“悪意なく”打ち砕いたこと、その“恥”の目撃者であったこと、が、それである。
その罪状によって、少なくともその男は女を処刑することが許されるのだ。

ただひとつの救いは、希美子を殺害しようとナイフを振りかぶった片原が、希美子の『顔』を見て、その手を止めた、ということだ。
そこには、独り善がりではない“愛”を確かに感じる。

『空白を満たしなさい』という平野さんの他の作品にも、同じように『持たざる者』として生まれ、社会を呪う佐伯という男が登場するが、佐伯の救いようのなさと比較すれば、片原にはまだ救済の可能性を感じる。