おとともじについて

おとともじについてかんじたことをもじであらわしています。

わがせしがごと

『仕事とわたし、どちらが大事?』

この問いかけを男性にするうちは、たとえその男性と子をなし、母となったのちも、その女性は男性の本質を理解できていないのではないか、そんなふうに思う。

男性にとって『仕事』は自己実現というよりも、自らの社会的生存を賭けたアイデンティティの確立と不可分なものであると同時に、特に、誠実な男性にとってのそれは『愛する女性を守るための戦い』でもあるのだと思う。

『誰よりも俺はすごいのだ』という承認欲求を充足させてあげるために静かに待つこと、そして、上手におんなの身である自分を守らせてあげること…。
それは、理解してはいても、むずかしい。
特に、『待つ』ことは。


十世紀中ごろに成立した歌物語、『伊勢物語』の二十四段に『あらたまの年の三年』という逸話がある。

以下、原文のすべてである。

【むかし、男、かたゐなかにすみけり。男、宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆきにけるままに、三年(みとせ)来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、「今宵あはむ」とちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで、歌をなむよみていだしたりける。

あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕(にひまくら)すれ

といひいだしたりければ、

あづさ弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ

といひて、いなむとしければ、女、

あづさ弓引けど引かねどむかしより心は君によりにしものを

といひけれど、男かへりにけり。女いとかなしくて、しりにたちておひゆけど、えおひつかで、清水のある所にふしにけり。そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。

あひ思はで離(か)れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる

と書きて、そこにいたづらになりにけり。】

以下、大意を。

【愛し合っていた夫婦ではあったが、活計たてるため宮仕えに出たまま帰らぬ夫を独り待ち侘びたおんなが、他の男からの求婚を受けいれ、再婚を約したたまさにその夜、夫が帰ってくる。
『わたし、再婚するのです。』ときっぱりといなぶおんな。
男は、

『私があなたを愛したように、新たな夫と睦みあうのですよ』

と、おんなの幸せを願い、三年前までたしかに愛の生活を営んだわが家の門に、静かに背を向ける。
(わたしを、不実だと、責めては、くれないの?)
(『愛している』と言って。中へ、入ってきてはくれないの?)
あとを追うおんな。

『ほんとうは、ずっとずっとあなただけをお慕いしていたのに。』

その声は、先をゆく男には、もう届かない。
絶命するおんな。
その指の血をもって岩に書き付けた辞世のうたは、

『あなたを愛していたのよ。それはそれは、深く。でも、あなたは…愛してくださらなかったのね。』

というものだった。】

 

男は、心変わりをすることなく、おんなのもとへ帰ってきた。
その事実が、男の愛の誠を表している。
おんなも、変わらず、男を愛していた。
しかし、その愛ゆえに、渇き、煩悶し、独り寝の心細さを恨んだ。
それゆえ、自らのこの苦悩を憶うと、扉を開ける手が、止まる。
(あなたにも、苦しみの爪痕を付けたい。わたしの、この手で、あなたの心にも同じ傷を、つけたい!)
男への、深い愛ゆえの、残忍な嗜虐への傾き。
復讐の一閃。
偽物のエンゲージリングを納めた薬指を閃かせるような。

『今夜、いらっしゃる方のために、この扉は開けられませんの。』
おんなの声は、自らも驚かせずにいられないほど、穏やかな冷たさに満ちていた。

この刹那に、男とおんなの運命は決まった。

ほんとうに深くおんなを愛していた男は、開かぬ扉の前でひとり、怒りを甘えと見抜くことができず、静かな微笑を浮かべて、『幸せに』と、そっと歩み去る。

素直になれなかったおんなは、ここではじめて弱さを見せる。
『ほんとうは、愛していたの。ほんとうは…!』

しかし、すれ違いすらも、すべてあるべき場所に正しく収められた、あるべき正しい運命のすがたなのかもしれない。
そして、おんなの死を知らず、男は静かに歩いていく…。


大きく時代背景を異にする、およそ千年前の短い文の行間から、世を経ても変わらぬおんなの業が立ちのぼる。
わたしの眼のまえで、それは、哀しそうにゆらゆらと揺れているが、その揺らめきは、わたしのものでもあるように感じる。

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