ことばと音

ことばと音についてかんじたことをことばであらわしています。"Utayomi", a poet of Japanese short poem, waka, writes about music and literature.

Der Kuss

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『接吻 Der Kuss』Gustav Klimt

 

 

「自分以外の”だれか”をほんとうに愛すること」は、けっして「うつくしいものややさしいもの」だけをよすがにできることではない。
それでも、勇気をもって、それをつづけること。
わたしにはそれしかできない。
どうしたって愛してしまうのなら。

 

そして、それは、たとえどんなにきびしいものであっても、けっして「茨の道」にはなりえない。
そこに「愛することのこのうえないよろこび」があるのなら。
それが、「愛することのこのうえないくるしみ」とともにあっても、わたしはそれを知る前に戻りたいとはけっして言いたくない。

 

わたしのなかにはちっぽけで愛に飢えた女の子がいて、その女の子はいつも「そのひと」の愛がほかのだれかに向けられていたことや向けられるかもしれないことに苦しみ、おびえて泣いている。
けれど、それは「そのひと」を責め、苦しめるためではない。

 

「”ほんとうの僕”がどれほど情けなくてかっこわるいか」なんて、わたしはとうの昔に知っている。
その、「情けなくてかっこわるい”ほんとうの僕”」に誠実に向かい合うかっこよさが、”too good to be true”だ、とわたしは言った。

 

とにかく、もう、「いま」は「いま」しかない。だれにとっても。
みんな老い、やがて死んでゆく。

 

”喜びを自分のために曲げるものは翼ある生命を滅ぼすが、通り過ぎる喜びに接吻するものは永遠の陽射しに生きる”。

 

 

 

 

わたしは永遠の陽射しに生きたいから、この喜びに接吻する。

『The Rose』花のち、花。

”It's the heart afraid of breaking that never learns to dance.
Just remember, in the winter far beneath the bitter snows, lies the seed that with the sun's love, in the spring becomes the rose."

 


The Rose - Bette Midler (歌詞字幕)English & Japanese Lyrics

 

去年の春に一瞬で心を奪われ、夏にはもうその心は永遠に「そのひと」のものになってしまったのだ、と悟った。


秋が過ぎて、寒い冬の夜に、はじめて「そのひと」の目を見た。きらめく星々のなかに夜空があるような、そんな目を。

 

そして、また、春。


この愛が育つのか、枯れてしまうのか、わからないまま、わたしは暗闇のなかにその花を見ている。

 

もしも、この花が枯れてしまっても、その存在に意味がなかったわけではない。

 

つぎにもっと美しい花を咲かせるためにその花が枯れてくれたことに感謝をして、その花びらを拾い、そっと口づけてから、風にあずけよう。

『Whatever』 可塑性のもつ不可逆性について

 

"私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ。…私の使命を理解することが問題なのだ。…私にとって真理であるような真理、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデ―(理念)を発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、それが私の何の役に立つだろう。"

キェルケゴールの日記』より

 

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Søren Aabye Kierkegaard 1813 - 1855

 

「あれも、これも」と手を伸ばすとき、その可塑性は可塑性として固定される。固まったまま時を経たそれらのやわらかいひと枝ひと枝は、もはやそれぞれの選択のときに後戻りすることはゆるされず、絶対的な不可能のうちに死ぬよりないのである。

 

「あれか、これか」の選択に必要なものは、「情熱」。
ただ、それだけである。

その「熱」は、ひとを浮かれさせ、判断の力を奪うものではけっしてなく、もっと厳しい「なにか」だ。

 

自らの選びとったもの以外を峻拒することを偏狭さであると羞じる必要はない。

「なんにでもなれる」ということばのうえに踊りつづける者は永遠に何者にもなれない。

あなた自身にさえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Oasis - Whatever (Official Video)

それは、なんという皮肉であろう。

媾曳(あいびき)

朝(あした)あなたと見る夢の 甘さを想うの。

その腕に抱(いだ)かれて、すべてを熔かしたい。

指折って待ちわびた媾曳の夜。

この最後の砦は、たやすく崩れる。

 

そっと手折ってください。

折れてしまいやしないわ。

髪・指・瞳・脚、すべてを、重ねたい。

 

あなたの動かすその指に、息が、止まる。

 

やがてくる夜闇にまぎれ、もういちど。

吐く息は白いかしら。あたためあっても?

 

深く震えてください。

それでもわたしはうたうわ。

 

髪・指・瞳・脚、すべてを、重ねたい。

あなたの動かすその指に、息が、止まる。

 

あなたの降らすその白い雪。

息を止める。

 

 

三島由紀夫『春の雪』にインスピレーションを得て。二十一歳のときの作品です。)

 

たがためにほふ

【はなのいろ たがためにほふ 君ならで うつせみの世の とはにしあらねば】

痴秋

 

【修辞】掛詞(たが:①誰の②姓の一)

 

 

今年の春、「魔法を取り戻した」と、ノートの片隅に書いた。それを書いたとき、「どうして、わたしはいま、子どものころのように魔法が使えなくなってしまったのだろう」という哀しみでいっぱいだった。「生きていくために、なんとかしてそれを取り戻したい」、その一心で「取り戻した」と書いた。

わたしは、いま、たしかにそれを「取り戻した」と言える。
わたしがほんとうにほしがっていたものが何であったのかを、わたしは理解することができ、それがほしいと言え、それに向かってためらうことなく、手を伸ばすことができるから。

「ほんとうにほしいもの」。
それは、身体だとか、魂だとか、はっきりと「かたち」として触れられるもの・触れられないもの、すべてをふくめた「わたし」をつくるすべての要素を悦びに震えさせるものだった。
音楽そのものよりも「そのひと」は音楽的だった。

「ほしいもの」から「ほしい」とまなざされたとき、いつもわたしは「ほしくない」と言って、背を向けた。わたしが『「ほしいもの」の「ほしいもの」』の完全なかたちでないことを恐れて。

けれど、いまは、わかる。
『「ほしいもの」のほしがっているもの』は、「そのままのわたし」だということが。
「そのままのわたし」は『「そのままのあなた」をほしがるわたし』だということが。

「生まれてきてほんとうによかった」とはじめて思った。

声を上げて泣いた。

すべての苦しみがここに至るためにあったとするなら、それらを恵みであったとさえ思えた。

 

自分ではないだれかをはじめてほんとうに愛することを知って、はじめて自分をほんとうに愛することができた。

 おやすみなさい。

youtu.be

むかしの人の袖の香ぞする

伊勢物語の六十段。

『むかし、男ありけり。
宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。
この男宇佐の使にていきけるに、ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、
「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」
といひければ、かはらけとりて出したりけるに、肴なりける橘をとりて、

【五月まつ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする】

といひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて、山に入りにてぞありける。』


以上、本文。
以下、現代語訳大意。


『妻を愛するがゆえに、交情のいとまなく宮仕えに勤しんだ男のもとを去った妻。
いまは別の男に愛され、地方官の妻としてつつがない生活を送る妻の消息を聞き、世に重く用いられるようになった元の夫が、かつての妻とその現在の夫のまえで、こう言う。

「奥さまにお酌をお願いしたい。
【五月を待って咲く、という橘のはなの香りを嗅ぐとき、かつて愛したあなたの香りを憶いだす】ので。」

と。

かつての妻は、元の夫とのことを思い出し、哀しみにくれ、世をのがれてしまった。』


本文が簡素平明であるため、解釈は男の立場から、そしておんなの立場から、いかようにも採ることことができる。

雨海博洋先生の解釈によれば、『肉慾に敗けたおんなが、仕事に賭ける男の真価を見抜けず、べつの男に心を移した』と捉えられるそうだ。

けれども、おんなであるわたしの立場からこの章段を感覚的に捉えてみれば、反対の解釈が生まれるのだ。

昼に、独り。
宵にも、独り。
男の身体は傍らにあるのに、独りであるようにおんなは感ずる。
男はただただ、仕事のことだけを考えている。
今日、あったこと。
明日、すべきこと。
おんなを愛していないわけではない。
むしろ、愛しているがため、仕事によって、自らが男であるということを証明したかったのだろう。
理屈では、理解したい。
しかし、こころは、満たされない。

『それなら』
『短いおんなの盛りを、むなしく過ごしてしまうくらいなら…いっそ…』
おんなは、決意する。

そして、平凡ではあるが穏やかな幸せに包まれた日々を送るおんなの前に、元の夫が、身を立て、名をあげ、誇らかにその姿を現す。

かつての夫は、
『女あるじににかはらけとらせよ。さらずは飲まじ』
と言い、
『むかしの人の袖の香ぞする』
などと、いまの夫の面前で、傲然と言い放つ。
それは、元の夫の「男のプライド」のなせる業としか、わたしには思えない。

去られた男のプライドをさらに満たすには、『元の妻よりも、さらに若く、さらに美しく、さらに家柄のよい娘』を妻として迎えることが必然であろう。
そうして、世間並の栄華を幸福として疑いを容れず、男は生きてゆくに相違ない。

そうして、幾とせかのち、ふと橘の香に触れたとき、ほんとうの意味で『むかしの人の袖の香』を、恋しく、愛おしく憶うのではあるまいか。

伊勢物語の、この段を徒然に読んでいたとき、ふと、そんなことを想った。

ふゆのあさ

あさ。

めがさめると、

きのうのつづきのわたしと、

きのうのつづきのせかいが、

そこにはあった。

 

けれど、

『おはよう』 というあたらしいひへのしゅくふくのことばは、

きのうまでのうつくしさだけをそっくりうつして、

きょうをあたらしくうまれかわらせる。

なやみやくるしみはよやみがやさしくとかし、

ただひかりがすべてをきよらかにてらす。

 

あさ。

いちどきりしかないあなたのきょうが、

わたしのきょうが、

つくしい、うつくしいひでありますように、と、いのる。

 

ふゆのあさ。