おとともじについて

おとともじについてかんじたことをもじであらわしています。"Utayomi", a poet of Japanese short poem, waka, writes about music and literature.

媾曳(あいびき)

朝(あした)あなたと見る夢の 甘さを想うの。

その腕に抱(いだ)かれて、すべてを熔かしたい。

指折って待ちわびた媾曳の夜。

この最後の砦は、たやすく崩れる。

 

そっと手折ってください。

折れてしまいやしないわ。

髪・指・瞳・脚、すべてを、重ねたい。

 

あなたの動かすその指に、息が、止まる。

 

やがてくる夜闇にまぎれ、もういちど。

吐く息は白いかしら。あたためあっても?

 

深く震えてください。

それでもわたしはうたうわ。

 

髪・指・瞳・脚、すべてを、重ねたい。

あなたの動かすその指に、息が、止まる。

 

あなたの降らすその白い雪。

息を止める。

 

 

三島由紀夫『春の雪』にインスピレーションを得て。二十一歳のときの作品です。)

 

たがためにほふ

【はなのいろ たがためにほふ 君ならで うつせみの世の とはにしあらねば】

痴秋

 

 

今年の春、「魔法を取り戻した」と、ノートの片隅に書いた。それを書いたとき、「どうして、わたしはいま、子どものころのように魔法が使えなくなってしまったのだろう」という哀しみでいっぱいだった。「生きていくために、なんとかしてそれを取り戻したい」、その一心で「取り戻した」と書いた。

わたしは、いま、たしかにそれを「取り戻した」と言える。
わたしがほんとうにほしがっていたものが何であったのかを、わたしは理解することができ、それがほしいと言え、それに向かってためらうことなく、手を伸ばすことができるから。

「ほんとうにほしいもの」。
それは、身体だとか、魂だとか、はっきりと「かたち」として触れられるもの・触れられないもの、すべてをふくめた「わたし」をつくるすべての要素を悦びに震えさせるものだった。
音楽そのものよりも「そのひと」は音楽的だった。

「ほしいもの」から「ほしい」とまなざされたとき、いつもわたしは「ほしくない」と言って、背を向けた。わたしが『「ほしいもの」の「ほしいもの」』の完全なかたちでないことを恐れて。

けれど、いまは、わかる。
『「ほしいもの」のほしがっているもの』は、「そのままのわたし」だということが。
「そのままのわたし」は『「そのままのあなた」をほしがるわたし』だということが。

「生まれてきてほんとうによかった」とはじめて思った。

声を上げて泣いた。

すべての苦しみがここに至るためにあったとするなら、それらを恵みであったとさえ思えた。

 

自分ではないだれかをはじめてほんとうに愛することを知って、はじめて自分をほんとうに愛することができた。

 おやすみなさい。

youtu.be

むかしの人の袖の香ぞする

伊勢物語の六十段。

『むかし、男ありけり。
宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。
この男宇佐の使にていきけるに、ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、
「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」
といひければ、かはらけとりて出したりけるに、肴なりける橘をとりて、

【五月まつ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする】

といひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて、山に入りにてぞありける。』


以上、本文。
以下、現代語訳大意。


『妻を愛するがゆえに、交情のいとまなく宮仕えに勤しんだ男のもとを去った妻。
いまは別の男に愛され、地方官の妻としてつつがない生活を送る妻の消息を聞き、世に重く用いられるようになった元の夫が、かつての妻とその現在の夫のまえで、こう言う。

「奥さまにお酌をお願いしたい。
【五月を待って咲く、という橘のはなの香りを嗅ぐとき、かつて愛したあなたの香りを憶いだす】ので。」

と。

かつての妻は、元の夫とのことを思い出し、哀しみにくれ、世をのがれてしまった。』


本文が簡素平明であるため、解釈は男の立場から、そしておんなの立場から、いかようにも採ることことができる。

雨海博洋先生の解釈によれば、『肉慾に敗けたおんなが、仕事に賭ける男の真価を見抜けず、べつの男に心を移した』と捉えられるそうだ。

けれども、おんなであるわたしの立場からこの章段を感覚的に捉えてみれば、反対の解釈が生まれるのだ。

昼に、独り。
宵にも、独り。
男の身体は傍らにあるのに、独りであるようにおんなは感ずる。
男はただただ、仕事のことだけを考えている。
今日、あったこと。
明日、すべきこと。
おんなを愛していないわけではない。
むしろ、愛しているがため、仕事によって、自らが男であるということを証明したかったのだろう。
理屈では、理解したい。
しかし、こころは、満たされない。

『それなら』
『短いおんなの盛りを、むなしく過ごしてしまうくらいなら…いっそ…』
おんなは、決意する。

そして、平凡ではあるが穏やかな幸せに包まれた日々を送るおんなの前に、元の夫が、身を立て、名をあげ、誇らかにその姿を現す。

かつての夫は、
『女あるじににかはらけとらせよ。さらずは飲まじ』
と言い、
『むかしの人の袖の香ぞする』
などと、いまの夫の面前で、傲然と言い放つ。
それは、元の夫の「男のプライド」のなせる業としか、わたしには思えない。

去られた男のプライドをさらに満たすには、『元の妻よりも、さらに若く、さらに美しく、さらに家柄のよい娘』を妻として迎えることが必然であろう。
そうして、世間並の栄華を幸福として疑いを容れず、男は生きてゆくに相違ない。

そうして、幾とせかのち、ふと橘の香に触れたとき、ほんとうの意味で『むかしの人の袖の香』を、恋しく、愛おしく憶うのではあるまいか。

伊勢物語の、この段を徒然に読んでいたとき、ふと、そんなことを想った。

ふゆのあさ

あさ。

めがさめると、

きのうのつづきのわたしと、

きのうのつづきのせかいが、

そこにはあった。

 

けれど、

『おはよう』 というあたらしいひへのしゅくふくのことばは、

きのうまでのうつくしさだけをそっくりうつして、

きょうをあたらしくうまれかわらせる。

なやみやくるしみはよやみがやさしくとかし、

ただひかりがすべてをきよらかにてらす。

 

あさ。

いちどきりしかないあなたのきょうが、

わたしのきょうが、

つくしい、うつくしいひでありますように、と、いのる。

 

ふゆのあさ。

0(ゼロ)の日のわらいごえ

わたしがあなたたちを生みだした、あの朝。

わたしのうちにもそとにも、
ただ、よろこびしかなかった。

あなたたちがわたしから生まれいでた、あの朝。
わたしのうちとそとに、
ただ、よろこびだけがあった。

わたしとあなたたちが生まれた、あの朝。
わたしたちは母と子でありながら、
手に手をとって、ここへきた。
よろこびのこえで、すべてをみたしながら。

0の日の、あの朝。
世界には、
ただ、よろこびしかなかった。
ただ、よろこびだけがあった。

いのちがうまれた日。
よろこびのこえはすべてをみたしていた。


うふふふ。
あははは。
けらけら、
くすくす。

hallelujah!

 

そう、ほんとうは、いま、このときにも。
ああ。

イアン・ボストリッジ、現代の錬金術師

"Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt,

Und bist du nicht willig, so brauch ich Gewalt."

『わたしはお前が好きだ、その美しい姿がわたしを魅了するのだ。
気が染まぬなら、力づくでも連れて行くよ!』

イギリスのテノール歌手、ボストリッジが此岸と彼岸を自在に行き来するシャーマンであり、クラシック音楽の長い歴史のなかにある既存の表現から新たな息吹を立ち上げる錬金術師でもある、と気づいたのは、前掲のシューベルトの歌曲、『Erlkönig』を聴いたときだった。

ケンブリッジ・オクスフォードの両大学で哲学と歴史学を修め、「知性が服を着て歩く」と形容されるボストリッジらしく曲頭から端正に歌い上げてきたその音の流れが、冒頭に掲げた、

"Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt"のくだりで、甘く歪み、ねじれ、
"Und bist du nicht willig, so brauch ich Gewalt."で、純白に輝く牙を剥く。
音価を無視し、吐き捨てられる”Gewalt”を聴き終えるか終えぬかの間に、開いたままの視界は完全に白一色に染まり、全身の毛穴がすべて開ききり、身体はそこに存在したまま、わたしの心は『狭間の世界』へ連れ去られた。
これはごく個人的な感懐にすぎないのだが、『目を見開き、坐したままで完全に意識を喪う』という経験は、単純に『音楽を聴いて感銘を受ける』という経験とは、明確に質を異にした。

さて、そのボストリッジであるが、物すレパートリーは、「繊細な声を持つ、知的なテノール」らしく、受難曲の福音史家に始まり、バロックオペラのヒーロー、ロマン派作曲家のリート、そして、ヘンツェなどの現代音楽の作曲家から献呈された現代歌曲まで幅広い。

その広いレパートリーのなかにおいて、彼の真骨頂とも言えるディスクが、レイフ・オヴェ・アンスネスの伴奏と二人三脚で創り出した『Winterreise』ではないかと思う。
録音当時、青年期を左目に見やりながら通り過ぎつつあったボストリッジアンスネスの二人の『青年』が紡ぐ『冬の旅』。
これは全二十四曲からなる、シューベルトの連作歌曲であるが、恋に破れた青年が尾羽打ち枯らして郷里をあとにする場面を描いた第一曲『おやすみ』に始まり、冬枯れの景色をあてどなくさすらう青年の心象風景が『絶望』の一色で、墨絵のように、ときに濃く、ときに淡く、表されている。

この『冬の旅』そのものについては機を改めて詳らかにしたいと思うが、この連作歌曲において、ボストリッジは、従来のドイツ語圏の、たとえば、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウなどのような歌手が紡ぎ出す、実際に目の前に思い描くことができ、肌で感じることができるような『重く、暗い冬枯れの景色』ではなく、『零下五百度の、すべてが美しく結晶した絶望』の世界を生み出している。

すべての芸術はフィクションであり、虚と実のあわいの微かな均衡のなかに、それは、成り立つ。
その虚と実の均衡をどう取るのか。
その身体感覚が、ひとつのテクストから個々の表現者独自の世界を、まるで硝子細工のちいさな樹が、瞬時に、無限に枝分かれし、広い空全体に伸びてゆくように、幾百通りにも、幾千通りにも創りだしていくのである。

学術研究の姿勢がその身に染み込んでいるボストリッジらしく、個々の楽曲に対する深い解釈は、テクストの正確な理解を前提とし、矩を決して越えない。
しかし、その制約のなかにありながら極めてオリジナルな表現をなしうるその手法と存在感(アーティストとしてのオーラ)は、すぐれた音楽家・芸術家のなかでも、端正に、しかし清烈な鋭さをもって際立った輝きを放っている。

組み合わせの妙、髪のひとすじよりもずっとずっとちいさなナノの空間を結晶させる秘密は、現代の錬金術師が、生まれ持った感覚と先人たちのすぐれた知識とを触媒する、その瞬間にあるのだろうと思う。

この錬金術師が歳を重ね、どう円熟していくのか、それを追い続けることは、わたしにとって、人生の楽しみの、たしかな一部分を占めている。

【読書ノートからの断片1】顔のない裸体たち:平野啓一郎著

愛を拒絶された(もっと直接的に言うのならば“振られた”)男が取る行動に、ふたつ、ある。

ひとつは、顔を赤らめ、その場からすぐに立ち去る、というもの。
もうひとつは、全身を怒りで赤く染め、『拒絶』という女側の理不尽で身勝手な行為に対して復讐の斧を振り下ろす、というもの。斧は、観念的なものに止まらない。

前者は持てる(モテる)男、後者は持たざる(モテない)男のそれである。

持たざる男は、女や社会を惹きつける何物をも持たないというただそのことだけで、長じるにつれ、自らを人生の敗者として感じるようになる。
そのなかで、それを『そのようなもの』として、己の運命を甘受し、力への意志を持つことができる者は、『持たざる者』から『持てる者』へ、その努力によって変容する可能性を持つ。
しかし、その不遇の沼のなかで、怨恨と傲慢を培養する者が辿る運命は悲惨だ。

『顔のない裸体たち』における、二人の主人公のうち、片原盈の運命は四十年かけて培養された怨恨と傲慢によってどす黒い呪詛に塗り潰されている。
高卒の地方公務員・片原盈(ミッチー)は、出会い系サイトにおいて、生徒指導の情報収集のためにそれに登録し、ふとしたことから、それが個人的な使用へと変化した中学社会科教師・吉田希美子(ミッキー)と出会う。
片原も希美子も、現実の世界において、人目を惹くような要素は何ひとつ持たない人間であるが、片原が世界(社会)を恨む傲慢さを持つのに対し、希美子は『こんなもの』と半ば諦めたような従順さを持つ。
出会ってしまったふたりは、たとえば白昼の野外での身体の露出行為をヴィデオに収めるというような一般的な性の営みを離れた行為によって、『ミッキー』と『ミッチー』として、社会的な仮面の下の抑圧された欲望を解放する。
片原が露出嗜好のサイトに投稿した自分の裸体を目にし、『そこ』において、その裸体が多くの男たちの性的な関心を喚起することを知った希美子のアイデンティティに変化が起きる。
しかし、言語によって思考できる知性を持った希美子は考える。
『これは、ほんとうに、わたし、なのだろうか』
希美子の内面の葛藤が進むあいだに、片原の内面も変化する。
単なる欲望の解放のために希美子の身体を『モノ』として必要としていたはずが、片原にとっては、『こころ』を温めるものとして必要なものに変わる。むしろ、身体でなくその『こころ』こそを欲するようになる。

『なァ、……オレたち、結婚せえへんか?』
『え?』

『関係』の終わる可能性を感じた片原が、ふと口にした(しかし意識の深層ではいつのまにか大きく育まれていた)願望に対する、希美子の瞬時の拒絶。
拒絶とは、単に、『え?』という彼女の表情でしかなかった。
しかし、その表情ほど“『ミッキーとミッチー』が『片原盈と吉田希美子』として社会的に結びつくことなど、希美子にとって夢想だにしないことだった”ということを如実に物語るものはなかった。
結局、希美子は、健康的なオモテの世界(それが見せかけにしか過ぎぬとしても)に属する人間であって、片原がどんなにそこへの所属を望んでも叶えられないのだ。
『希望』は『絶望』に変わり、『絶望』は『殺意』へといともたやすく変化する。
持たざる男にとって、『殺意』には正当な理由がある。
のちに拒絶されるべきものでしかない『希望』を抱かせたということ、それを“悪意なく”打ち砕いたこと、その“恥”の目撃者であったこと、が、それである。
その罪状によって、少なくともその男は女を処刑することが許されるのだ。

ただひとつの救いは、希美子を殺害しようとナイフを振りかぶった片原が、希美子の『顔』を見て、その手を止めた、ということだ。
そこには、独り善がりではない“愛”を確かに感じる。

『空白を満たしなさい』という平野さんの他の作品にも、同じように『持たざる者』として生まれ、社会を呪う佐伯という男が登場するが、佐伯の救いようのなさと比較すれば、片原にはまだ救済の可能性を感じる。